
会期終了間近に水戸芸術館でボイスの展示を先日みました。
展示の焦点は84年の8日間の来日。
芸大での講演映像が公開されていて、これがかなり面白い。
・社会や政治や時代、つまりは資本主義と戦っていく芸術家の彼は、いわゆるオーソドックスな、自己表現、審美型のアーティストたるアーティストを「子供の領域を出ない」ものだ
・医学や科学に携わる人間と比べれば芸術というのは楽なもの
・社会において創造性を発揮し、よりよい社会を作るプロセスにおいては芸大生よりも西武の社員のほうが実践している
・芸大というのは国立大で、つまりは国家、政府によってつくられている機関だから、そのことに対して批判的であるべき
などなど、手元に資料がないのでほんの一部ですが、こんなことを美術の勉強に日夜励んでいる秀才芸大生の前で朗々と語っていて、質問する学生は半ばキレ気味。笑
「ボイスは過大評価されている」なんて紙があったり、かなりの賛否両論ぷり。
84年だから、自分は生まれてなくて、バブルの前で、ソ連も崩壊していないから共産主義やマルクスの階級闘争についても言及している。もう26年も前のことですが、この講演が今現在行われたとしてもそんなに古くは感じないし、同じような反応が返ってきそうな感もある。
まあ今は社会や資本主義や街(コミュニティ)を主体とし、私たちがコネクトできるようなアートがさかんに行われてはいますが、一個人としてのアーティストの活動原則は、社会型と表現型の間で常に揺れ動いているんじゃないかと思います。
周りの人間に聞くと、ボイスに影響を少なからず受け、自分対社会の距離を常に考える人と、こいつのせいでアートがめちゃくちゃになっているんだと考える人の2つに結構分かれます。ちなみにbug-depayseは前者だなあ間違いなく。
ボイスは基本的に、もはや芸術はいわゆる芸術としての表象物ではなくて、すべての物事に対する創造性およびそれによる社会変革だと規定していて、私はこれに対してまったくその通りだと思うし、そうあるための人生ではなにをすればいいのか、日々悶々とするしがない23歳だと常に自覚はしてるんですが。
まあ、ボイスの作品を考えたときに、もはや活動家(言論先行という意味でも)の彼のアクションがあくまで作品として展示されたり発表されてそれが美術品の金銭的価値を生む矛盾、作品は行為であるゆえに他者でも遂行可能であり、その思考を知ることで鑑賞者に能動性を与えると同時に、その形態自体が安易な芸術作品を現在あまりにも多く出してしまっている功罪があったり、多くの可能性と限界を一度に感じてしまいます。
とりあえずつづく
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