2年ちかく前のもの。
このころの気分に戻ってきてしまったのだ。
彼女はどこかにあるお城のなかの、ひとつの部屋に住わされています。部屋といっても、絨毯やベッドはありません。そこはおそらく大浴場として使われるべき場所で、全体的に白っぽく、壁はタイル張り、床もコンクリートみたいな固い灰色で、だだっ広くがらんとした空間です。彼女はこの部屋から出ることは許可されていなくて、何時もぼんやりとここに佇んでいるばかりなのですが、天井には丸い大きな天窓があり、そこから木漏れ日が射し込み、人の話し声や雨音をたまに聞き取ることができます。 彼女は赤茶けた髪を背中の下まで伸ばし、日に焼けない肌は陶器みたいで、その上半身をむき出しにしたまま、床をひきずる長さの腰布のみを身に付けて暮らしています。そして眼はいつも潤んでいます。唇はものを言いたくても言葉を知らないといったふうな、中途半端に結ばれた表情をしています。 天窓のある辺りは、外ではお城の庭の芝生です。城にあつまる裕福な女性たちが、昼間にそこで会話を楽しんだあと、彼女を見に天窓にたむろします。女性達は厚く歪んだガラスの下にいる彼女の様子を眺め、間抜けな表情であるとか、歩き方がぎこちないだとか、髪の毛が呪われた色だとか、そういった揶揄で盛り上がり、天窓を尖ったヒールでがしゃがしゃ叩いて、それに驚く彼女を笑い者にします。 彼女はこのノイズにうんざりしていて、ひどくみじめな気分になります。 「ねえさまがた、やめてちょうだい」 と天窓へ呼び掛けるのですが、一向にやむ様子はありませんでした。 でも本当のことを言うと、そのねえさまがたがどんなに肌の手入れをし、着飾っても、彼女のほうが歴然と、作り物のように美しかったのです。寧ろねえさまがたがあまりにも醜いのです。 たまに、部屋にはご主人ー部屋の主で、おそらく城の持ち主である王子様かなにかでしょうかーが現れます。彼は濃いブルーやえんじ色の立派な洋服を召しており、金髪の聡明な表情の男性です。彼女をどこからか見つけ、住わせることを決めたのは彼です。彼は彼女の美しさを承知しています。でも彼女のことを恐れてもいますのでせ、決して優しい言葉も、そぶりも見せることはなく、厳格そうな態度と手付きで彼女に接しています。 彼女がここに住むにあたり、彼はひとつの条件を課していました。 部屋を訪れる際は、彼はよく切れる、ぎざぎざのナイフを手にしています。そして彼女と対面するやいなや、彼女の1枚きりの腰布をとるように命じます。彼女はにこりともせず、怯えもせず、だまって腰布を床に落とします。 脚が2本あるかわりに、その中身は、魚の胴体からひれ、尻尾にかけての部分です。 ちょうど腰骨のあたりから、陶器の肌は魚のなまめかしく光る皮膚に変わっています。鱗はなく、何色ともとれない色なのですが、その皮膚もまた、手に触れたくなるきれいな質感です。腰からひれが2つ生えており、尻尾の付け根でバランスをとって立つことができました。 彼女は部屋のすみの、仕切られた空間(おそらくシャワー室かなにかでしょう。いずれにせよこの後に床を洗い流す必要がありましたから)で身体を横たえます。彼はそこで、ナイフを取り出し、魚の皮膚に、刃をゆっくり、食い込ませます。そうして適当な大きさの肉を、切り取ります。彼女には案外痛みはないようで、彼の条件にはこうしていやがらずに応じています。肉をいくらか失ったところですぐ傷は治ってしまうようです。 彼は切り取ったままの肉を、残さず口に運びます。 「にんぎょのにくは、わたしをきれいなままにしてくれるのだ」 と彼女は耳にしています。
あるとき、いつもは天窓から彼女を眺めていた女性たちも、彼と一緒に部屋を訪れました。彼のまわりを取り巻き、ぺちゃぺちゃとおしゃべりをふりまいています。いつもはしんとした部屋も、このときだけは異様なほど賑やかになりました。 彼女らを目の前にしても、彼は、いつものように、ナイフをあて、肉を切り出して食べはじめました。すると彼女ら、一層騒ぎ立て、私を恐い目で見たり、彼に失望したり、気を失ったりするではありませんか。 肉を切り取ると、血を吹き出すかわりに、鮮やかな緑色の液体がたくさん流れ出すのですが、それはいつも水たまりのように、彼女の体全体と、彼の足元を覆います。いえ、水たまりというよりは、魚の彼女が水を欲していて、その望み相応くらいの緑の池ができあがったという感じです。この緑は彼女の赤い髪によく映えます。 肉は、白くとても柔らかく、噛み切る必要もないくらいで、バナナによく似ていました。肉そのものも、バナナのように細長い形で、傷口から顔を覗かせていました。だから肉を食べるのも、皮膚からバナナを取り出して食べるような、妙なものだと彼は言っていましたが、彼女自身はバナナが何なのか知りません。 いつもは、彼が肉を食べにくることを「ちょっと疲れること」として、彼女は大人しく過ごしていましたが、女性達がやってきたこのとき、彼女はとても困惑しました。彼女ら自身の望みを叶えるために、特別に彼は肉を食べることを許したようですが、彼女らときたら、ただ気味悪がるだけで、緑の池に近付けずにいました。彼といえば、そのことも、そしてこのときわずかに池で身をよじらせた彼女すらも気付かないふうに、黙々と肉を食べ続けています。ビロード生地のズボンの膝と、指10本が緑色に染まっています。 やがて彼女らも、おそるおそる、欲望に負けて、肉を食べはじめました。彼女らも緑色の指になりました。肉の味は定かではありませんが、緑の池も肉も、生臭いものかもしれません、おいしそうな顔はしていませんから。それでも、彼も彼女らも、肉を口に入れる様は、目が血走り、ひたすらそれに集中しているようで、歯が尖っているように見えます。 彼女は彼に対して、とても申し訳ない気持ちと、はずかしい気持ちで一杯でした。そして女性たちには、恨みはしないけれど、ヒールで窓を叩かれたことの100倍くらい、辱められているのだと、ぼんやりした頭で感じていました。 彼へは、ずっとなにか言いたい気分がありましたが、それを見つけようと口をすぼめていたうちに、とうとうその機会をなくしてしまったことも感じました。 彼女は、誰にも気付かれずに涙を流しました。その涙も緑色でしたので、すぐに池の一部になってしまいました。
***
やがて、誰もいなくなったあと、ひとり広い部屋のまんなかで、彼女はぐったりしながらも、起きだしました。全身がまだ緑色です。そのまま部屋の向こう側のすみへ歩き、天窓の下にうずくまりました。汚れのない白い壁に、ヤドカリが一匹、這っています。この子は、この部屋の秘密の住人で、彼女の唯一の話し合い手でした。話といっても、この子には口なんてものはありません。自身の立派なお城と、ナイーブな肉を覆う甲殻の2つの荷物だけです。彼女は、海に住んでいるものたちとは、コミュニケーションのとれる余地があると決め込んでいました。だから、このヤドカリとも、彼女なりの会話を楽しみます。 彼女はヤドカリをひょいと摘まみ上げ、口のなかにそっと放り込みます。そのまま、舌の上でその子を転がし、脚のささやかなリズムを感じ取ります。彼女は、それに対して舌と顎を上下させて、心地よく応じます。 「………………………。」 口のなかで、なつかしいしょっぱい味がしてきました。
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